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平塚市美術館
細川護熙さんは権威と階級を嫌う生粋の湘南人政治家であり、芸術家。2023年4月8日から6月11日まで神奈川県平塚の市立美術館でその美術展が開催されています1993年に55才で総理大臣となり、60才で政界を引退。作陶や絵画に打ち込んで20余年。広い会場2部屋に展示された数々の作品には、護煕さんの芯の強さと優しいさが溢れています。バブル期の1991年に落成した美術館は吹き抜けの床、壁の全てが*白い大理石で覆われて異彩を放っており、時には音楽演奏会も催されています。
*ビアンコ・ペルリーノ ライムストーン近似色ですが、硬質のクリーム色大理石 イタリア・ベネト州ヴィチェンツァ・アジア―ゴ特産
Perlino Bianco(Bianco asiago:Vicenza,Veneto,Italy)

細川さんを良く知る人には意外ではありませんが、総理大臣職を担った政治家としてだけを知る人はこの美術展出品作の高い完成度に驚くでしょう。幕府と呼ばれる中央集権が確立した頃から、芸術に造詣が深い武士は珍しくありませんでしたが、正に護煕さんは現代の武士。優れた芸術を産んだその背景に迫りましょう
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美術作品にあふれる独創性のルーツ 護煕さんの思想が育まれた幼少期
疎開地から湘南の別荘に定住したエスタブリッシュメント・ファミリー
1945年、太平洋戦争が終戦すると湘南各地の別荘地は疎開先から別荘に戻った多くの方々で溢れていました。東京の本宅が大空襲の戦災で破壊されたからですが、湘南を本拠に替えた世代のメジャーは細川護煕さんの父親、護貞氏など、明治後期の1907年前後生まれの子育て世代。皇族、華族、財閥、政官界首脳の一族子弟が多かったために、ほとんどの方々は旧知の間柄。子弟たちの学校選択は同じところに集中していました。
幼少期から大学までのカトリック系教育:小学校は横須賀の清泉女学院(共学)
鎌倉の材木座に住まわれた護貞さんの二人の息子、護煕、護輝さんが小学校低学年で入学したのは開校したばかりの、横須賀清泉女学院の共学小学校。太平洋戦前の1937年にスペイン系カトリック(キリスト教旧教)聖心侍女修道会の修道女3人が開校した小さな学校を、戦後の1948年に再開したものです。護煕さんは再開後第一期生の小学4年生、護輝さんは3年生。立地は現在の戦艦三笠記念館や猿島フェリー発着所の隣接地。廃墟のような、瓦礫が散らばる旧海軍工機学校跡の校舎でした。
横須賀は米国海軍の最大の進駐軍基地化
学校はJR横須賀駅、京浜急行駅からはかなり離れており、戦争直後の風俗に触れながらの徒歩通学。大型の米国車や軍用ジープが走り回り、女性が嬌声を上げ乍ら水兵にぶら下がり歩く様。毎朝定時に威風堂々と、勢力を誇示しながら行進する米軍楽隊パレード。逗子から大礒まで広範囲な旧別荘地から通う子供たちには異次元の世界でした。
カトリック(キリスト教旧教)の教義
カトリックの教えには信者の個性により、受け入れられるものと、受け入れ難いものが存在します。「清貧」、「貧しきものは幸いなり」、「人類はみな平等」は国が敗れた時代の都市生活者が好むと好まざるにかかわらず、自然と受け入れていた現実。信者を神の子羊とよび、神への恭順、従順を強いる部分の受け止めは、人それぞれ。
清泉の学校生活はカトリックの教えに沿っていますから、男子には風土が合わない生徒も多かったと思いますが、同じ時期に新設開校されたカトリック・イエズス会の栄光学園中学校、高校(横須賀市田浦)に優先入学できるため、中途退学者は多くありませんでした。活発、行動的な護煕さんは自我が芽生えたのでしょう、栄光学園高校時代に他へ転校しましたが弟の護輝さんは、泰然自若、沈着冷静。護爺(もりじい)とあだ名で呼ばれたくらいの成熟した振る舞い。難なく高等学校までを終了しています。
1940年代の湘南は生活物資、食糧の不足で貧しかった時代
この頃の湘南は生活物資や食料が極度に欠乏しており、主要なものは「くじ引き」や配給。資産家は預金封鎖、新円切り替え、富裕税等で流動資産を失っていましたから、子弟の学校や自宅近隣での生活は、地元で農業、商業を営む方々やサラリーマン家庭の子供たちと平等に不自由に耐えながら共に暮らす時代でした。
都市圏では闇屋が横行していましたが、有識層はヤミ物資や食料に手を出しませんから華族の中の華族であった細川護貞家が移転した鎌倉材木座の家でも遊び仲間にご馳走する「おやつ」はサツマイモ。留守がちな両親に替わり、二人の子供と遊びに来る友人にも「平等」に細やかな気配りをする「お手伝い」。旧家ならではの存在感がある年配の婦人が印象的でした。
貧しさの中から得た第一の宝物「人間は皆平等」
戦後の混乱期を湘南で過ごした旧エスタブリッシュメント子弟の生活体験は、家柄、地位、職業、資産、経済力、才能にどんな差があろうとも人間は皆平等であることを教えてくれ、彼らの人格形成の大きな柱となりました。
護煕さんが選択した大学は栄光学園と同じカトリック・イエズス会が運営する上智大学。ゴルフ、スキーに熱中し、後に結婚するゴルフ部仲間の上田佳代子さんを見染めます。上田佳代子さんは湘南藤沢市鵠沼育ちの生粋の湘南人。感性が共有できたのでしょう。
成人した護煕さんは正義感が強く、理不尽に不公平な世の中が許せない性格。スポーツを愛する多感な青年は、政治家にならねば世直しが出来ないと気づき、33才で政界入りを果たしますが、その後は多くの方がご存知の通り。
細川護煕さんが近衛家から得た第二の宝物「祖父文麿の遺伝子」
細川護煕さんが受け継いだ家系の遺伝子は特別なもの、唯一無二でした。総理大臣に至る道に最も大きな影響を与えたのは母方の祖父の近衛文麿さん。昭和最大の混乱期である10年代に三度総理大臣を引き受け、大変な苦労をされた方です。
文麿さんには文隆、道隆の二人の男子の他、昭子、温子(よしこ)のお嬢様がおられましたが、細川護立侯爵家長男の護貞氏さんと結婚したのが次女の温子さん。背が高い美男子の護貞さんはグループ姉妹たちのあこがれだったと言われます。

近衛文麿さんの長男文隆さん 護煕さんの父親護貞さんの親友 近衛文麿公爵
護貞さんは東京駒沢の東京ゴルフ倶楽部や軽井沢GCの仲間である近衛文隆さんの親友。文隆さんはプリンストン大学(米)留学中にゴルフの達人となり、仲間にはポチと愛称され、親しまれていました。護貞さん長男の護煕さんは文麿さん長男の文隆さんや長女の昭子さん同様に情熱的、行動的で信念を貫く個性。一方、護輝さんは対象的に父親の護貞さんや次女温子(よしこ)さん譲りの穏やかで自己主張を見せない、調整型の優しい個性。護輝さんは後に近衛文隆さんの養子となり、近衛家を継ぐことになります。
下記記事の第5項、第6項を参照して下さい
「尾崎秀實の思想とスパイゾルゲ事件:所得と身分の格差拡大が若者を蝕んだ時代」
https://botanicals.co.jp/library_view.php?library_num=138
護煕さんの政界入り
華族が極力避けているのが政治家業。父親や護輝さんが望まぬ政治家となった護煕さんは、平凡な政治家が求める地位、権威、利権、金銭など私利私欲の全てに無欲。五摂家筆頭の近衛公爵家と大大名の細川侯爵家の血を受けて、俗人が求めるもの全てを、生まれ乍らに備えているからです。
幼少時から皇族、華族、総理大臣、大臣、高級官僚などいわゆる位の高い人々が常に身近であり、その素顔、真の姿、本音、内情を知り得る立場。彼らの誰もが人間として平等な人々であり、平凡なことを知り尽くすようになります。地位を求めることの虚しさを知るからこそ、志が低く、議員バッジが権力の象徴と考える多くの政治家の振る舞いに我慢ならなかったでしょう。
「来栖三郎駐米大使とジョゼフ・グルー駐日米国大使の交遊: 太平洋戦争は不可避だった!!」
https://www.nogibotanical.com/archives/3820
護煕さんのぶれない信念のルーツ
階級社会や経済的格差の大きい社会を嫌い、声の小さい弱者の味方として利権政策が溢れる政権与党とぶれることなく戦い、社会改革を推進された強さは肥後細川家の武士の遺伝子ばかりではありません。護煕さんが共鳴したのは秩父宮雍仁親王、護貞さんの友人白洲次郎さんらの強い正義感。(次回に護輝さんを取り上げた時にエピソードなどをご紹介します)芸術作品に表現される優しい愛の心は、若くして早世された母親の温子(よしこ)さんの遺伝子と小学校から大学卒業まで過ごしたカトリックのスクール・ライフを通じて得たことと推測しています。
2度と現れないだろう稀有な政治家
古今ともに伝統ある家系には政治家を志望する人が稀。民主主義の歴史が浅く、低質、浅薄な政治家が多い世界だからです。
護煕さんは政治家を嫌う親族から離れ、あえて飛び込んだ稀有なプロ政治家。利権構造で固定化された政治の改革をスローガンにした新党「新自由クラブ」は首都圏の有識者層に歓迎され大躍進。
声の小さい国民を対象とする少数派政党の旧態制打破には数々の困難がありやすくありません。小政党、新自由クラブを結成、党首となった護煕さんの誰も持ちえない出自の背景は政権獲得を目的に野党勢力をまとめる役割を大いに期待されました。1990年代初期には8つ以上の野党が乱立しており、取りまとめは大役。それを託されたのは細川護煕さんが、まさに「余人をもって代えがたい」政治家だったからです。ぶれない信念は内部に敵もつくります。内乱に乗じた旧政権の巻き返しに敗れ早期の引退となったのは、国民から見れば大損失でした。志半ばとはいえ、一石以上、いくつもの石を投じた成果を認める人は少なくありません。

上下の写真:東北大震災に心を痛め、鎮魂に描いた作品。


近年は細川家のルーツである京都の縁ある寺で襖絵を書かれることが多くなりました。



細川護煕美の世界:平塚市美術館

細川護煕美の世界:平塚市美術館

細川護煕美の世界:平塚市美術館
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