ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

第八十〇話:「大江戸歳末風景・餅つきのパフォーマンス」

2017/12/04
最終更新:2026-09-08
餅つきは、現代では町内のイベントの一つに過ぎませんが、江戸時代には正月の準備に追われる人々には欠かせない暮らしの一大行事で、極めて当たり前の光景でした。
人手の多い大通りで、大きな釜や蒸籠(せいろ)まで路上において、餅をつくのは、それがビジネスだったからです。「餅つき屋」なる職人が“営業していること”を知らしめるため、往来に数多くの“仕事師”が出現する必要性があったという訳です。
主として、表通りに面している商家が、店先で景気づけに餅をつくという意味合いもあり、パフォーマンス的要素の強い餅つきを「引きづり餅」と呼び、商家は餅米だけを用意し、道具類一式は「餅つき屋」が持参したのです。
「餅つき屋」といっても、実際上、限られた期間の仕事であり、成立した職業というよりは、餅屋や米屋の従業員が出張して請け負った仕事をこなしたようで、他にも商家に出入りする鳶職人、左官、大工などもバイト仕事を引き受けたようです。
 一般に餅を買い求めるには、15日までに餅屋(あるいは餅菓子屋)に前もって注文して出前してもらうか、大口の場合は自宅まで、餅つきに出向いてもらうケースもあり、これは「賃餅」と呼ばれました。
尤も、既述の「引きづり餅」の方が体裁も良く、所謂“粋で恰好良かった”ので、派手な餅つき風景は、見栄っ張りだった江戸っ子が、当然ご祝儀をはずんだのでした。
餅は、武家も町民も正月の必需品であるばかりか、人々の大好物だったらしく、餅屋は大繁盛しましたし、餅つき屋も年末のパートタイマーとして、多額の臨時収入にありつけたようです。二人組の場合は、一人が杵を担ぎ、もう一人は臼を担ぐ(又は転がす)といった風体で、注文によって移動を繰り返した訳ですが、持ち込む道具によっては5~6人のグループで釜や蒸籠を携え、意気揚々と出向き、きっぷのいいパフォーマンスを展開したのです。江戸八百八町は、あちこち杵の音が響き渡り、賑やかな歳末風景を醸し出しました。
 有明も三十日に近し餅の音 松尾芭蕉我が門へ来さうにしたり配り餅 小林一茶餅搗きし家ありすでに音ひそめ 山口誓子 「店中の尻で大家は餅をつき」は、江戸川柳の一句で、餅と糞尿には切っても切れない密接な関係がある、即ち長屋の共同トイレの糞尿のおかげで、大家は長屋の住民(店子)に餅をふるまうことが毎年恒例化していたことを物語っています。
当時、排泄物は貴重な肥料で、下肥として使うため、江戸近郊の農家が買い求め、代金は農家から長屋の管理人・大家へ現金で支払われるか、農産物(年末なら、もち米)と交換する場合もあり、実に無駄のない循環システムが出来上がっていました。
この代金で、大家は「餅つき屋」を頼むことが出来、店子は正月の必需品を手にすることで長屋の連帯感も維持され“三方皆得”という、もう一つの「大江戸年末風俗」があったのです。